自民党幹事長二階俊博を調べ占ってみた

自民党の鬼軍師二階俊博と調べてみた

1939年2月、和歌山県御坊市新町に生まれる。父親の俊太郎は和歌山県議会議員だった。父は仕事が忙しく、物心がついたころから父といっしょに遊んだ経験がなかった。母・菊枝は医師古久保良輔の娘で、当時まだ珍しかった女性医師だった。

稲原小学校に入学し、終戦後、御坊小学校に転入した。御坊中学校に進学した二階はある時、外郭団体の主催する弁論大会のメンバーに選ばれ、部落差別問題を主題にした島崎藤村の社会小説『破戒』を引用し、人権問題について演説した。和歌山県立日高高等学校を経て中央大学法学部政治学科に進学する。

法学士号を取得して卒業後、静岡県選出の衆議院議員で建設大臣を務めた遠藤三郎の秘書となる。遠藤の死後、和歌山県に戻り、1975年に和歌山県議会議員選挙に立候補して当選し、連続2期務めた。

1983年、旧和歌山2区から自由民主党公認(田中派)で第37回衆議院議員総選挙に立候補する。5万3611票を獲得し、2位で当選を果たした。以後、現在まで連続当選を続けている。

田中角栄に対する配慮と、師・遠藤三郎がかつて藤山派に属していたために江崎真澄に近いことから竹下派結成には参加しなかったが、その後、奥田敬和ら中間派が竹下派に参加したことを契機に自身も参加した。

1990年、第2次海部内閣で運輸政務次官に就任。1992年の竹下派分裂時は小沢一郎に同調し、羽田派に参加する。

1993年、宮沢内閣不信任決議案に賛成して自由民主党を離党、小沢らと共に新生党結成に参加した。総選挙後に発足した細川内閣で再び運輸政務次官に就任する。細川内閣での政務次官時代は社会党の運輸大臣伊藤茂を差し置いて「影の運輸大臣」と呼ばれた。

細川・羽田政権後、新進党にも参加し、「明日の内閣」建設・運輸・国土政策担当などを務める。小沢側近として小沢の党首選出にも尽力した。1996年、第41回衆議院議員総選挙で新設された和歌山3区から立候補し、自民党(清和研)の現職野田実を破り5連続当選を果たす(野田は比例復活したが、後に連座制を適用されて失職した)。

1998年、新進党分党後も小沢側近として自由党結党に参加した。

自由党国会対策委員長として自自連立政権樹立に動き、1999年の小渕内閣第2次改造内閣で運輸大臣兼北海道開発庁長官として初入閣した。

2000年4月、自由党の政策が実現されないとして連立解消を主張する小沢ら連立離脱派と袂を分かち、野田毅や扇千景ら連立残留派とともに保守党を結成する。自公保連立政権に参加し、小渕内閣を引き継いだ第1次森内閣で運輸大臣兼北海道開発長官に留任した。

同年7月、保守党国会対策委員長に就任。2001年、保守党党首の扇が野田に党首の座を譲ったことから、保守党幹事長に就任した。

2002年、保守党の後継政党である保守新党でも幹事長に就任したが、2003年の第43回衆議院議員総選挙で保守新党は代表の熊谷弘が落選するなど惨敗し、自民党に吸収された。かくして二階は約10年ぶりに自民党へ復党することになる。

自民党への復党後、旧保守新党の議員らで新しい波(二階グループ)を結成して会長に就任。2004年9月、自民党総務局長に任命される。以後、自民党が下野する2009年までほぼ一貫して政府や党の要職の座につけ、政界再編期の離党・出戻り組の中では異例な存在であった。

2005年5月、内閣総理大臣小泉純一郎の意向により、自民党総務局長を兼任しながら衆議院郵政民営化法案を審議する特別委員会の委員長に就任する。郵政国会では郵政民営化法案の衆院通過に尽力した上、その後の郵政解散による第44回衆議院議員総選挙では選挙責任者の総務局長として候補者擁立などに奔走し、自民党圧勝の功労者となった。この大勝利をきっかけに総務局長の地位が見直され、地位向上が行われるようにもなった。またこれによって、比例当選議員が中心ではあるものの二階派の議員数が増加することになり、二階が一定の政治的影響力を持つことになった。

総選挙での功績を買われ、2005年10月に発足した第3次小泉改造内閣に経済産業大臣として入閣する。2006年9月、小泉の自民党総裁任期満了に伴い安倍晋三が総裁に就任し、民主党代表小沢一郎への対策として自民党国会対策委員長に任命された。

2007年8月、党三役の一角である自民党総務会長に就任。その直後、自らが代表を務める和歌山県第三選挙支部の政治資金収支報告書未記載問題が発覚する。2007年9月14日、自民党幹事長麻生太郎の総裁選挙立候補を受け、自民党役員会において、2007年自民党総裁選期間中の幹事長職務を一任された。9月24日、福田康夫が総裁に就任し、総務会長に留任することが決まった。

2008年の福田内閣改造に伴い自民党総務会長を退任し、福田改造内閣に経済産業大臣として再任された。2008年9月24日に発足した麻生内閣でも経済産業大臣に再任されている。

2009年8月30日に行われた第45回衆議院議員総選挙に出馬した際は、公明党の推薦も受けて9回目の当選を果たし、同年10月には自民党幹事長の下に新設された自民党選挙対策局長に就任。自身が会長を務めていた二階派は総選挙で二階本人を除く衆議院議員が全員落選し、参議院議員2名と合わせて総勢3名となったことから派閥の維持が困難となった。このため、11月5日に全員が志帥会(伊吹派)へ合流し、同日付で二階派は解消された。

同年12月に西松建設事件で政策秘書が政治資金規正法違反で略式起訴となったことを受け、自民党選挙対策局長を辞任する。

2012年12月、伊吹文明が衆議院議長への就任に伴い志帥会(伊吹派)会長を退任。後任として二階が同派会長に就任し、志帥会は伊吹派から二階派へと衣替えした。

2013年、安倍政権は二階を衆議院予算委員長にして、事実上封じ込めたのだが、二階は逆に与野党の人脈を駆使し、史上最速で予算を衆院通過させ、官邸に実力を見せつけた。そこで、安倍首相は2014年9月、第2次安倍改造内閣発足と同時に行われた党役員人事において、二階を党総務会長に再び任せた。同時に慣例として二階派会長を退任し、同派会長は空席とされた(同派の指揮は会長代行の河村建夫が務める)。

2016年8月3日の第3次安倍第2次改造内閣発足と同時に行われた党役員人事で、自転車で転倒して入院した谷垣禎一の後任として自民党幹事長に就任した。就任時の年齢は77歳と5ヶ月であり、歴代の自由民主党幹事長の中で最高齢の就任であった。えみ

以上wikipediaより



こうして二階俊博さんの経歴をみてみると元小沢一郎さんの側近だったのですね、ここで政治のイロハを学んだのでしょう。対小沢の強力な幹事長です。また、親中国派ですので彼はうまく自民党の中のバランスを取っているように思います。二階さんのような手練れには本来なら、自民党内で反安倍勢力をしてほしいですが。。

二階俊博を占ってみた

つい今日ですか、二階さんはこんな失言をしています

自民党の二階俊博幹事長は26日、東京都内での講演で、東日本大震災をめぐる失言で辞任した今村雅弘・前復興相を念頭に「人の頭をたたいて、血を出したっていう話じゃない。言葉の誤解があった場合、いちいち首を取るまで張り切っていかなくてもいいんじゃないか」と語った。自らの派閥に所属する今村氏の発言を、擁護したとも受け取られかねない発言だ。(朝日新聞デジタル)

二階さんの気質は000.いわゆる天然ですね~

この発言も思わず思っていた事を言ってしまったんですね。何にも悪くないのにと。

表向きの素質は555ですから、きっちり無表情で失言などもしないのですが、お酒でしょうか、油断でしょうか、本音を言ってしまいました。

二階さんが自民党の幹事長ということは、自民党の1回生とかは取り入るのは苦労するでしょうね、読めませんから。。

人の話も100/1ぐらいしか聞いてないと思いますよ。

二階さんは機を見るのが天才なのでしょう、ここら辺は小池百合子と近いですね。

派閥の長としてはどうなんでしょうね、依怙贔屓しそうですが・・

コメント

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